最近の吉田は変わった気がする。
長州藩邸の会議室にて、議論を交わしながら、吉田を見つめる人物がいた。
彼の名は杉山松介。
吉田より三つばかり年上で、彼とは松下村塾からの付き合いである。
「杉山君どうした?そんなに不思議そうな顔をして。」
横から声を掛けられた杉山は、我に返り声の主に視線をやった。
視線の先に居たのは、桂小五郎と乃美織江であった。
「先程から吉田君ばかり見つめているようだが…」
「君衆道の気があったのかね?確かに、吉田君はあまり女性を
近付けない所があるが、男がいいというわけではないと思うよ。」
「違います!」
自分が吉田を見つめていた事に気付かれ、
あらぬ方向に話が及んだので、杉山は偉く慌てて否定した。
その時の桂、乃美が笑いを堪えているのを見て、杉山はからかわれたのだと悟る。
「吉田君がどうかしたのかい?」
からかわれて、少々頬を膨らませている杉山に、
悪い事をしたかと、気が引けた乃美は、改めて杉山に尋ねた。
「この所変わったような気がするんです。何というか、
身に纏う雰囲気…とでも言えばいいんでしょうか。」
昔から吉田は、身分に左右されること無く誰にでも分け隔てなく接する優しさがあった。
そして、誰よりも実直で義理堅い。
だからこそ杉山は、年下でありながらも、門下生の頼れる先輩として吉田の事を敬い慕っていた。
それは今も全く変わらないのだが。
吉田が他の藩士との会話の最中に時折見せる笑顔。
「以前より柔らかくなった気がするのです。」
杉山が見つめる先の笑顔を見て、乃美も桂も頷いた。
「吉田君とは江戸でも行動を供にした事があったが、
あの頃は常に思い詰めているような所があった気がするね。」
そう言って桂は過去に思いを馳せた。
今は亡き吉田松陰からの頼みで、吉田を練兵館へ招いた桂は、
度々師斎藤弥九郎に替わり、彼に直接指導した事もある。
その頃の吉田の目は実に澄んでいて、何事も見逃すまいと、
全てを吸収しようと集中している様が覗えた。
だが、その澄んだ瞳は、何時しか影を落とすようになった。
師松陰の幽閉と断罪。
その間に吉田はどれほど葛藤したであろう。
時折松下村塾門下生と吉田の元を訪れた桂は、彼の痛々しい姿を直視できなかった。
松陰の死を機に、吉田は変わった。
人としての喜びや楽しみを敢えて封じるかの如く、倒幕活動に奔走する。
常に緊張という糸を張り詰めた状態で、以前にも増して隙が無くなった。
笑ってはいても、何処か憂いを帯びていて、
心底からの屈託の無い笑顔は見せなくなってしまった。
そんな吉田を、桂も、そして松陰の旧友である宮部もまた、気に掛けていたのだ。
つい一月程前、京に現れた吉田も、その時と変わらなかったのだが……。
この一月の間、京で何があった?
その答えを、桂、乃美、杉山の三人は、後日知る事になるのである。
京に入ってから杉山は、桂と供に加賀藩邸を訪れている。
加賀藩では未だ佐幕派の勢力が強いが、長州に同情している者も少なくない。
藩の世子も長州に友好的で、今後長幕融和を進めていく
長州にとっては、是非とも味方に付けたいのである。
江戸で幕閣相手に交渉を行っていた吉田だが、やむを得ない事情で
暫し京に滞在する事となり、その間加賀藩との交渉に当る事になったのである。
以来、杉山は吉田と過ごす時間が多くなった。
志士達は夜になれば、島原だの祇園だのに繰り出し、派手に遊ぶ者も多かった。
だが、吉田にはそんな素振りは見られず、藩邸に戻っては書を読むか、
文を認めている事がほとんどであった。
「関口さんは行かないんですか?」
ふと、加賀藩邸からの帰り道に訪ねてみたことがある。
外では、何時誰に探られているとも限らないので、二人は変名を使用していた。
吉田は関口敬助と、杉山は乃美松助と名乗り、藩邸外では、必ずこの名で呼ぶように務めていた。
「何の話ですか?」
「皆遊郭に出掛けていくじゃないですか。
関口さんはそういうのに興味はないのかと思って。」
真剣な眼差しで訪ねてくる杉山に、吉田は思わず笑みを零した。
「付き合いで連れて行かれた事はありますが、私にとってはあまり好ましくない場所でしたので、
足を運ばないのですよ。それに今は他にやるべき事がありますし。」
そう語る吉田には、いかなる女性をも近付けさせない気迫が漂っている様に感じた。
「女性は嫌いですか?」
「そういう訳ではありませんよ。」
曖昧に笑って、吉田はその質問をやり過ごした。
それ以降も、やはり夜になれば吉田は藩邸で、机に向かうばかりで、
昼間も女性を近付けるような事はなかった。
その吉田の行動に微妙な変化が現れ始めたのは、それから一週程経った頃。
今までは単独で行動する時も、それは常に志士活動の為であった。
だがこの所、それとは別の目的で、一人で何処かへと出掛けるのである。
疑問に思った杉山は、悪いとは思いながらも、吉田の後をつけてみる事にした。
吉田は饅頭屋に寄り、二つ三つ買い求めると、包みを持ったまま加茂川沿いを下って行く。
五条大橋を過ぎた辺りで、背後から吉田を呼ぶ女の声に、
心の蔵が止まるかと思う程驚き、慌てて茂みに身を伏せた。
吉田を関口と呼びながら、自分の目の前を通り過ぎていく女は、
女人…というよりは、まだあどけなさの残る少女であった。
女にしては珍しく袴姿で、髪も短い。
国許で会った妹とは違う。
どうやら京の人間でもなさそうだ。
果たしてこの女は何者なのか。
追い着き息を切らす少女に、吉田は手を差し伸べると、手を取り川原へと降りていった。
杉山はその様子を、茂みの中からじっと見つめていた。
二人はずっと、饅頭を口に運びながら、話に花を咲かせている。
その時、杉山は自分の目を疑った。
少女を見つめる吉田の目には、何時ぞやの藩邸会議所で見せた柔らかい光が、
いやそれ以上に穏やかで優しい光が宿っているのである。
それも一時的なものではなく、少女と話している間、絶え間なく続いている。
こんな穏やかな吉田を見たのは初めてであった。
彼女との出会いが、彼に安らぎを齎したのか……
今日吉田の後をつけてしまった事を恥じ、
これ以上覗いては野暮だろう、と杉山はその場を立ち去った。
その数日後、桂は枡屋にいた。
尊攘派の志士達と話合うためである。
尊攘派…といっても皆が同じ訳ではなく、桂や吉田を始めとする、
幕府側と融合し新しい国を築こうと交渉活動に奔走する慎重派と、
武力で幕府側を排除しようと考える激派に二分されているのである。
度々暴走する激派の行動を懸念して、時折宮部や桂は、こうして集まる機会を設けていた。
その枡屋の片隅で、窓辺より外を眺めながら優しそうに微笑む吉田が、桂と宮部の目に留まった。
「またあの目だ…」
そう桂が感じた時には、既に宮部が吉田の背後に回り声を掛けていた。
「席に呼びたい芸妓でも見つけたかね?」
「いえ、先日会った方の事を思い出しまして…」
親友でもあり、吉田の師でもある松陰は
、生涯一度も女性と心を交す事無く、参廿目前にしてこの世を去った。
その松陰が最後まで気に掛けていた愛弟子である吉田もまた、
師と同じく女性を近付ける事無く、自分の成す事一点だけを見つめ、走り続けている。
宮部には、吉田が師と同じ道を辿っている様で、堪らなかったのだ。
柔らかの表情のまま語り出す吉田の表情にも驚いたが、その口を突いて出た言葉に更に驚いた。
あの生真面目な吉田から、女の事が語られるとは……。
その様子をよほど嬉しく思ったのか、宮部は吉田の頭を必要以上に撫でた。
話を聞けば吉田が気にしているのは、遊女の類ではない様で、
尊皇攘夷の話にもかなり通じている様である。
政事に関して話を一方的に聞く女は数多く在れど、
供に意見を交わせる女子はそうは居ないであろう。
良い出逢いをしたのだと、桂は思った。
そして二人の末永い幸せを願う。
吉田の立場を思えば、常に一緒に居ることはこの先も多分無理であろう。
また、佐幕、倒幕両側からいつ命を狙われるとも限らない身の上だ。
だからこそ、彼には幸せで在って欲しい、と願わずにはいられないのだ。
しかし、そんな穏やかな時間は、激派の志士達の物騒な話題で、脆くも崩れ去った。
京大火計画。
京に火を放ち、その混乱に乗じて、天子様を国許まで動座奉ろうというのである。
この計画を行えば、京の街は壊滅。
生き残った京の民は、長州の人間に恨みを持つであろう。
そして、八月廿八日の政変にて、佐幕側からも朝廷からも信頼を失いつつある時分に、
この計画を実行に移すのは危険な賭けであった。
借りに天子様の動座に成功しても、その後天子様の信頼を得られなかったら…
長州は天子様を攫った朝敵として、諸藩に討取られる。
今まで桂や吉田が行ってきた、朝廷や幕閣への交渉も水の泡と化すのである。
何としてでも阻止せねば。
だが、既に爆発寸前の激派の昂ぶりは、そう簡単に抑えられそうもない気配を漂わせていた。